八事窯は各地のお茶会では流儀を問わず重宝されております。

茶の間
八事窯の看板
五代道年の窯焼き


八事窯 中村道年の由来


有栖川宮威仁親王のご用命・表千家 即中斎宗匠のご命名

八事窯は京都に生まれた初代道年が有栖川宮威仁親王のご用命で楽焼を作陶したことから始まりその後、名古屋八事南山に窯を築く。二代道年が表千家 即中斎宗匠のご命名を受け「八事窯」と称し、光悦風の楽焼に専念し八事窯を世に広め現在に至ります。


尾張は抹茶を楽しむ習慣がひろく浸透した土地柄であることから「茶どころ名古屋」とも称され、瀬戸や常滑をはじめ、名古屋城内の御庭焼や城下町で様々な茶道具が制作されました。


なかでも楽焼は当地独自の個性がみられ、江戸時代後期の萩山焼や宗玄焼、豊楽焼などといった流れが八事窯中村道年へと引き継がれ、今日に至っています。


萩山焼は十二代藩主斉荘、宗玄焼は藩家老であった渡辺規綱の御庭焼でしたが、豊楽焼や笹島焼は茶人たちの求めに応じ茶道具類を作る陶家として大正年間まで続きました。

京都出身の初代道年が名古屋に招かれたのは両窯が閉窯した後のことで、茶人森川如春庵から名古屋の豪商師定の三代高松定一を紹介され、その全面的な支援を得て大正12年(1923)昭和区八事で開窯しています。

 

ここは益田鈍翁や如春庵などが訪れて作陶を楽しみ、多くの数奇者や茶人に支援される窯となりました。また大正14年(1925)近在に料亭八勝館が営業を開始すると、滞在中の賓客をもてなす場としても利用され、北大路魯山人をはじめとする様々な文化人が訪れるなど、陶房は昭和の華麗な文化サロンでもありました。

当初は楽焼以外にも本焼の窯を焼成していたが、戦後は楽焼専門となった。


この時、二代道年は研究と試作を繰り返し、如春庵の理解と後援を得て、光悦の名碗「時雨」と「乙御前」写に励んだ。そしてついに高い評価を得るようになり、光悦写の道年と呼ばれるようになったのであった。

 

八事窯はその後も数奇者や茶人たちの支援を得て、茶道具専門の楽焼窯として今日に至っている。

また、八事窯の命名は二代道年の時に表千家家元即中斎から拝受したが、名古屋をはじめ各地のお茶会では流儀を問わず、まことに重宝され現在、五代と続く。